2013年3月 |
日曜日は天候も良くなりそうなので以前から訪ねようと思っていた「浅川巧の墓」を訪ね、その後に山歩きの足慣らしのため近くの山でトレキングを楽しもうと思い提案したら日本営業部のチョン課長が同行してくれることになった。 「浅川巧の墓」は韓国の陶磁器に関心がある人なら一度は訪れみたい場所だと思う、しかしここへ個人で行くのは地下鉄の清涼里駅からタクシーを使うのが良いのだが、初めての人には難しいかもしれない。韓国人であるチョンさんも忘憂里共同墓地(マンウリコンドンミョジ)は初めてのようでスマホナビをセットして管理事務所のある駐車場に到着した。すでに多くの登山姿の人々が集まっていてトレキングに出発していた。 私もチョンさんも韓国人に合わせて山登りの服装をバッチリ決めて来たのだ・・(笑)。 |
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忘憂山(マンウリサン)全体が共同墓地になっている、木々の芽吹きはも少しだ |
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まず墓参りをするために「浅川巧の墓」に向かった、管理事務所から少し登ると案内板があり二股の道に分かれるが左手のアスファルトのゆるやかな道を約20〜30分登って行くと、左側に薬水(水飲み場)が見えたら、10m手前にある場所の石段が目印である。今回はネットで事前に調査して来たのですぐに見つかった。 |
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薬水場が見えたら左側の石段の上に墓がある |
石段を登ると正面に韓国式の墓があり右側に「浅川巧功徳乃墓」と書かれた墓標がり、左には黒御影石の墓標があった。カラーの黄色い花が鮮やかに咲いている鉢が供えられていた。多分2、3日前に彼岸のお参りに来た人が供えたのであろう。 鉢花には山梨県の旅行会社の社長の名刺が付けてあった。そういえば浅川巧は山梨県出身者だったのでその縁でここまで来たのだろう、ご苦労様である。 |
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韓国式の墓と祭壇にはカラーの鉢花が供えられていた |
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浅川巧は、1914(大正3)年、兄の伯教を慕って朝鮮半島に渡り、林業技師として荒廃した山々の緑化に奔走するかたわら、兄ととも「朝鮮白磁」をはじめとした朝鮮陶磁の研究や、木工芸品の中に民衆芸術の美を見出し、優れた文化として日本に紹介した。 日本の植民地支配の時代にあって、現地の人々に同じ人間として接し、朝鮮語を話し韓国の山と民芸を愛し、まわりの人々に敬愛され、韓国人の心のなかに生きた浅川巧は1931(昭和6)年に40歳の若さで朝鮮の土となった。左側の墓標には次のような内容が刻まれていた。
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参考 ・在韓日本国大使館 公報文化院長 高橋妙子氏のコラム ・映画 道ー白磁の人 柳宗悦に影響を与えた浅川巧の半生を描いた日本映画 (2012年6月公開)。 |
参拝した後は墓に別れをつげてこの忘憂山(マンウリ山:320m)の稜線を歩くトレッキングに出発した。ここは山にある共同墓地だから多くの人々が健康志向のトレッキングをしている、コースもいろいろ整備されていて途中には体力つくりのための運動用具も備えられていた。ケナリ(レンギョウ)やチンダレ(ツツジ)の蕾が大きくなっている。あと一週間後ぐらいに黄金色が一面に広がるだろう!!
老人の塔という名前がついていたが健康で長生きしてほしいという意味が込められているようだ。この塔は高さが5mぐらいで個人が長期間かけて石を積んだそうだ!。 この付近から急な坂を登ると中間に体力作りのための筋肉トレーニング器具が設置されていて60歳のおじさんが10kgのバーベルを20回持ち上げていたのでビックリだ!!。 稜線のコースは登ったり降ったりの道が曲がりくねっている、墓の脇も通り抜けたりすると約や2時間ぐらい歩いて駐車場に戻った。 |
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