2021年12月20日 | |||||||||||||
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金丸原飛行場跡 今では飛行場があったという場所に立ってもまったその面影はなく田畑があるだけである。この付近がが金丸原飛行場跡であったということを知っている人は少ない。 当時に使っていた格納庫がゴルフ場に敷地内にあるというので、ゴルフ場の許可を経て敷地に入って行くと上部は樹林に覆われている格納庫「当時は掩体壕という」があった。 金丸原飛行場の滑走路は2本で、現在の金田南中学校付近から国際医療福祉大にかけて1900メートルの第1滑走路、那須野ケ原カントリークラブ付近から同大にかけて1300メートルの第2滑走路があったのだ。 ここで操縦訓練を受けた若者は数千人であるという、確証はないが特攻隊員になった者も居たようだ。この史跡は過去の歴史をきちんと捉える一つの糸口になる筈だと思うが案内板は地区の保存会が建てたようで大田原市の貴重な歴史の痕跡なのになぜ市は関与してないのか不思議である。
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金丸塚 約1600年の歴史を誇る那須神社(金丸八幡宮)は、国の重要文化財に指定されている。大田原市史編さん専門員の木村康先生から「金丸氏と那須野が原」という講座資料を戴いた。この資料の中に金丸(かねまる)の地名の由来につながる内容も書かれていた。 確かに今でも北金丸、南金丸という地区が残っている、この地名は、那須神社のもともとの名前が金丸八幡宮と呼ばれていた時代に、ここにある金丸塚に由来しているということが解った。 この地に家族と引っ越して来てから早いものでもう数十年も経っているのでこの那須神社には何度もお参りしているが金丸塚については初めて知った。 本殿の裏にこの金丸塚が現存しているようなので見学して来た。正面には金丸塚の由来が書かれている案内板が正面に立っていた。 |
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法師峠 大田原市の史編さん専門員である木村康夫先生の資料PDF(公開は了解済み)に詳しく書いてあるのでご参照下さい。 この峠にまつわる逸話に、若き与一が弓の稽古にヒバリを射ていたところ、通りがかりの旅の法師から無益な殺生を避けるため、ヒバリの蹴爪を狙って射るように諭されたという。このためこの辺りのヒバリには蹴爪がないといわれている。 地図に書かれている場所を訪れてみると戦後の開拓で飛行場は跡形もなくなり、現在はゴルフ場になっている。近くには那須野が原ファームというリゾート地もある。 |
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那須野が原ファームを右に見て少し行くと左側に急な坂があった。近くの畑で作業してしていた老婆に聞いたら、法師峠など聞いたことがないと言われた。この坂道の奥はゴルフ場の食堂に通じるので車の出入りはあるよとの話しだった。 | |||||||||||||
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位置からしてこの坂が法師峠だと確信に近い思いがした。坂道を登って行くと頂上付近で関係者以外は立ち入り禁止の看板あり、行き止まりだった。雑木林の中の道を歩いていると・・鳥の声と一緒に遥か遠い「昔ばなし」が聞こえてくるようだった。 | |||||||||||||
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秀衡街道跡 古代の幹線道路であった「東山道」の駅路らしきものが市内の湯津上地区でも発掘されている。また市の郊外になるが国道400号線の蛭畑という地区には「秀衡街道」と呼ばれる街道跡がある。現在は畑となっており、周辺の畑に比べ多少窪地になった約7メートル幅の街道跡があり案内板には東山道の脇街道であったと書かれていた。 平安時代末期の奥州平泉で繁栄を極めた藤原秀衡時代のこの街道付近の住人はどんな生活をしていたのか思い巡らした。 |
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郷土の歴史を調べて行くといろいろな事を知り、新たな人との出会いがあり ハッとする感動があったりで面白い。 |
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