2008年3月

 その昔、シベリア地方から南下した北方モンゴロイドの一部は中国の遼寧に住み着き、更に南下して朝鮮半島の高句麗、百済に住み、更に南下して海を渡り日本に住み着いたと各種の歴史書にある。特に栄華を誇った百済が660年に滅亡した時は多くの百済人が日本に渡った、当時の先進文化をもった彼らは日本で飛鳥文化の花を開かせてくれた。

 いつの頃か知らぬが古代の那須地方も多くの渡来人(百済人、新羅人)が鉄の製造、金の採掘、鋳造の技術など先進文化もって開拓した。また彼らは弓矢の製造や軍馬の調教にもたけていたようである。その証拠を示す代表的な痕跡は那須国造碑である。

国宝・那須国造碑

 那珂川沿いに国道294号線を黒羽に向かって行くと左側にこんもりとした老杉の森がある。ここに笠石神社(大田原市湯津上)が鎮座し、ご神体として「国宝・那須国造碑」が鞘堂(覆い堂)の中に安置されています。

那須国造碑のある笠石神社
 
 日本三古碑の一つといわれる那須国造碑の大きさは、碑の上部に乗せた笠石を除いた高さは1.2m、幅は最上部で42cm、最下部で49cm、厚さは約40cmで、石材は近くの八溝山地の花崗岩を用いている。碑の表面は平らに磨き、ここに1行19文字で8行、計152文字を整然と並べて陰刻され書体は中国の六朝風のものであるという。

碑文の最初の3行に歴史上重要な内容を記している。
「永昌元年4月飛鳥浄御原大宮(持統天皇)より、那須国造の追大壱(なすのついだいいち)那須直韋提(なすのあたえいで)は評督(=郡司)を賜ったが、庚子(かのえ)の年(文武天皇4年=700年)正月二日、辰の時刻(午前八時)に死去したので、意斯麻呂(那須直韋提の子?)らは父の遺徳をたたえ、碑を建てて偲び銘した。

おおよその意味は次の通り。
「父は広来津君(ひろきつのきみ)の後裔で那須国の棟梁であった、一生のうち、追大壱の位を与えられ、さらに那須評督に任命されて、二度の栄光に恵まれた。私たち子は、どんなに苦しいことがあっても、これまで受けたご恩に報いなければならない。孝養をつくす子は父の教えを守りつづけよう」

 
 
那須国造碑
国道沿いから見た神社の森
国造の碑文を読め・・・太古思はゆ
 

 
 碑文のはじめに、「永昌元年」という中国(唐)の則天武后(624〜705年)の時の年号を用いているので時代が解る。これは持統天皇3年(689年)にあたり、このころ朝鮮半島の新羅では、中国の年号を用いているので、碑文をつくるにあたっては、中国の文章にくわしい教養のある新羅系の渡来人が深くかかわったようです。

 余談だが・・・国宝である那須国造碑は文化的価値とともに観光価値はないのだろうか、大田原市観光協会のページにもこの碑についての記述は無い。外側から見た感じは社務所はいつも閉まっていて管理は神社まかせのようである。地元でもっと支える必要はないのだろうかと思う。

 時代は下って飛鳥・鎌倉時代に那須与一の逸話の時代になりますが、勝手に話を飛躍させ夢想すればるとこの地方の那須家も渡来人もしくはそれに極めて近い人材から興ったかもしれません。

 


那須与一宗隆

 那須地方では昔ながらのお祭りや現代風のイベントでは餅をつきながら歌う「餅つき歌」が披露されます。那須与一と兄の十郎が、源九郎義経の家来となって平家追討の旅に立つとき、その出陣を祝って、領民が大勢で激励の餅をついて献上したのが始まりといわれています。

 大田原市・福原には那須家の菩提寺の玄招寺境内に那須与一の墓があります。毎年9月那須与一公大祭が開催されます。この日には「福原餅つき歌」の奉納と「与一弓道大会」が開かれます。
那須与一宗高公は色白でヨイヨイヨイ
         男美男で旗頭よヨイサッ〜

福原の温泉林の八重桜
        八重につぼんで九重に咲く

九重が十二ひとえにさくならば
        温泉林は花でかがやく


つづく・・・

 与一の略歴は平家物語や源平盛衰記に伝えるところが大きい、平家物語の記述から逆算すると、1169年頃に誕生したようです。誕生地は当時の那須氏の居城神田城(現在の栃木県那須郡那珂川町)と推測されています。

 文治元年(1185)2月源義経は、わずかな軍勢を率いて四国の讃岐に渡り、屋島にいた平家を背後から攻めたてました。あわてた平家は海上に逃れ、海辺の源氏と対陣しました。夕暮れ、沖の平家から小舟が一艘、陸の源氏側に向かって招いているではありませんか。「この扇を弓で射落としてみよ」と言っているようです。義経は「味方で射落とせる者はいないか」と言いました。すると、後藤兵衛実基という家臣が「弓の名人は沢山おりますが、下野の国の住人で、那須の太郎資高が子に、与一宗隆という者が居ります。

 小柄ではありますが、空飛ぶ鳥を三つに二つには必ず射落とす程の腕前でございます。」と答えました。早速、那須の与一宗隆公が義経の前に呼び出されました。「いかに宗隆、あの扇の真ん中を射て、平家に見物させてやれ。」と命じます。その頃の与一宗隆公は、二十前後の若者でしたから射落とす自信もなく辞退いたしますが、重ねての厳命に意を決して、馬に乗り、海の中に乗り入れます。

 その時の様子については「平家物語」によると、この様に書かれています。
与一は目をふさいで「南無八幡大菩薩、我国の明神、日光権現、宇都宮、那須ゆぜん大明神、願わくばあの扇のの真ん中射させ給え、これを射損ずるものならば、弓きり折り自害して、人に二たび面を向かうべからず。いま一度本国へむかえんとおぼしめさば、この矢はづさせ給うな」と心のうちに祈念して・・・ひィふつとぞ射きったる。鏑は海へ入りければ、扇は空へぞあがりける。しばし虚空にひらめきけるが、春風にひともみふたもみもまれて、海はさっとぞ散ったける・・・・。

            扇をば海のみくづとなすの殿
                       弓の上手は与一とぞきく
  (玉虫の前)

玄性寺(大田原市・福原)
那須家の墓への道
左から3番目が与一宗隆公の碑
道の駅・那須与一の郷
那須与一宗隆公の像

 


 福原玄性寺にある供養碑は、那須与一公とその一族のために建てられたものと伝えられています。「伝えられている」とか「いわれている」という表現を使っているのは学実的な確証がないのである。しかしそれでも良いのではないか、那須与一という人物がこの地方から出て「扇の的」の伝説の元になっていることで十分である。

 ところで屋島から帰った那須与一は源頼朝ににらまれ越後に流される、7年後に許され那須に帰るが当主の地位も兄弟に譲って出家して旅に出て清らかに生きたそうです。1190年前後に京都伏見にて病死。即成院に埋葬されたと伝えられています。那須資景が那須氏の菩提寺玄性寺(栃木県大田原市)として再建し、那須氏ではこちらを本墓としている。

 大田原市では町おこしの一環として「与一の里・大田原市」として盛り上げています。最近完成した道の駅・与一郷の中にある「与一伝承館」で那須与一にまつわる資料の展示や「扇の的」の物語をロボットと映像で楽しみながら郷土の誉「那須与一」を伝えていますが・・少し子供向けのようなロボットシステムでリアリティには欠ける。

参考文献

古代下野への誘い  塙 静夫 (財団法人 とちぎ生涯学習文化財団理事)
2002年10月8日発行  下野新聞社発行 ISBN4−88286−179−8

下野国の古代文化  塙 静夫 著
昭和56年2月25日発行

天の弓 那須与一   那須義定 著
1993年5月30日発行


源平合戦と那須与一物語   那須温泉神社宮司 人見昇三 著
昭和55年4月20日発行
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