韓国通で新韓派と言われている女優の黒田福美氏の著作「夢のあとさきー帰郷祈願碑とわたし」を読んだ。昔から反日嫌韓感情で語られることが多い日韓関係だが、最近の韓国の反日感情がどうなものかを知ることが出来る内容でもあった。
この本の中に韓国・龍仁市の法輪寺というお寺の境内に「帰郷祈願碑」が設置されていることを知ってビックリした。その理由は心臓病で55歳で大手電機会社を退職した後に技術顧問として毎月の半分を20年間支援していた中小企業の工場があった都市が龍仁市であった。早速、韓国の知人に連絡して調べてもらったら工場から車で約20〜30分ぐらいの山間部にある寺ということが解った。
「夢のあとさきー帰郷祈願碑とわたし」の内容は既にネットでも紹介されているが、概要は・・
黒田福美氏はある時、夢枕に立ったという韓国人特攻隊員への思いからその慰霊碑を立てることを志した。 慰霊碑は「帰郷祈念碑」として完成し、除幕式が行われるところまでこぎつけた。
除幕式当日に民族団体の反日デモが押しかけ除幕式は急きょ中止となり、石碑は撤去されてしまった。 反日・愛国論で反対を扇動する団体には誰もそれを押し留められない韓国の「反日」の現状がある。
日韓双方の善意と協力の結晶が一瞬にして砕かれてしまったが「亡くなった人に罪はない」として、この龍仁市の法輪寺の住職が境内への移築を受け入れ戦争と戦没者について記述された面が見えないように半分を土に埋めたのだ。
本屋の書棚に見かける嫌韓本とは違う内容で哀しい歴史が両国の間には横たわっているが、それでも希望を捨てないという黒田福美氏の思いが胸を打った。
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今回の訪韓は以前から続いている日韓企業のサッカー親善交流会がソウルで開催されることになり、韓国企業のオーナーから招待があったためだ。そこで試合当日より一日早く訪韓して工場で社員と久しぶりの交流をしてから社長の車で法輪寺に向った。
法輪寺の駐車場から石段を上がるとすぐに派手な色彩の本堂になっていて帰郷祈願碑は見当たらない。ひょってして場所が違うかも思って引き返して石段から下の方向を見回すと右の隅に写真で見た碑のような物があった。
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法輪寺と書かれた碑を右に曲がる |
法輪寺への地図(クリック) |
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法輪寺の駐車場から見た正面 |
境内の隅にあった慰霊碑 |
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石段を降りて近づくと確かに「帰郷祈願碑」と書かれた碑と左側に説明文があった。同行した社長はこの寺は二度お参りしているがこんな隅ではほとんどの参拝者には解らないだろうなとつぶやいた。説明文は日本語と韓国語が書いてあったが「帰郷祈願碑」の建立を通じた悲しい経験とそれでも変らぬ日韓の和解に向けた思いは何も書いてない、なぜ法輪寺にあるかの本質的な内容が伝わって来ないと思ったっがそれも仕方が無い。
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帰郷記念碑が半分埋まっていた |
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日本語の説明文 |
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碑の前に立つと周囲は野草が生えている、碑の敷石の隙間からも草が出ていたので取り除き綺麗にしてから太平洋戦争で日本人として朝鮮人の若者が南方で亡くなった御霊を弔う碑に向かい感謝と鎮魂の祈りを献げた。
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社長も一緒に草むしりをしてくれた |
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独立運動家の子孫で作る光復会の活動家がこの法輪寺にも押しかけ撤去を迫ったようだ。住職は双方の気持ちに配慮し戦争と戦没者について記述された面が見えないように半分を土に埋めたのだった。なんともやるせない話ではあるが追悼碑が韓国の地に根を下ろし、今も朝鮮半島出身戦没者たちの魂を慰めていることは事実である。
三進トラベルサービスのHPによれば製作当時の姿は次のようなものだったのだ、しかし頭部が切られて碑の本体が半分が土の中に埋められているのは反日団体への妥協の姿かもしれない。
当時特攻に志願した朝鮮人特攻隊員は、日本人と同じく志の高い崇敬に値する人物だったろうと思う。 その慰霊碑をというのは純粋に感謝と鎮魂の為と考えるべきで反対する理由はないはずである。
一市民の思いがなんでこのような仕打ちを受けなければならないのかと・・憤りを覚える。
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上部の不死鳥を象徴するヤタガラスの造形物と碑石を分離してあった |
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お釈迦様の生誕日(旧暦4月8日)に色鮮やかな提灯で彩る韓国仏教の最大の祭典があったようで沢山の提灯が並んでいる。
撤去を要求する団体がある中でこのような妥協した姿でも保存に協力していただいた法輪寺の住職に感謝しなければならない。提灯の下を通って本堂に上がってお布施を出して拝礼して戻った。
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提灯には寄進者の名前が書いてある |
本堂の前にて |
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立派な建物が並ぶ法輪寺 |
コンクリート製の支柱だから最近作られた! |
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