高野山・ひとり旅

2019年4月

 
 熊野古道の中辺路を歩いた時(2015年)に高野山にも行きたかったが体力的に無理なので断念した。多くの欧米人が古道を歩いていたが紀伊勝浦駅で出会ったオーストラリア人夫婦がこれから自国で人気の高野山にも行くと言っていた。

 この時以来、高野山の旅をしたいなと思うようになり、平成最後の一人旅は「高野山」と決めて出掛けた。そこで人間の力の偉大さと自然と宗教の一体感を感じた素晴らしい旅が体験できました。

 
   高野山を歩く(1)--(4月15日)
   朝の6時に自宅を出てバスに乗って出発、東京駅でひかりに乗り換えて大阪へ11時32分に到着。「ひかり」の利用は30分程度は遅くなるが読書時間と考えればジパング倶楽部で3割引が魅力だ。地下鉄で難波駅まで行き、長い構内を歩いて南海電鉄の難波駅に着いたのが12時。乗車券を買おうと窓口に行ったら12時発の特急電車が出発したばかりという、次の特急は1時間後だがこの電車に乗った方が極楽駅には早く着くと言われたので昼食をとり約1時間待って13時の特急に乗った。

 極楽駅まで1時間20分で意外に時間がかかった、ケーブルカーとの連携は出来てすぐに乗れたが外国人が多いのにはびっくりした、外国人観光客の多さには宿坊や観光施設でもビックリが続いた。

極楽駅から桜をと思ったが遠すぎた お寺のイメージの高野山駅
 高野山駅についたのは14:30だった、駅舎が心なしかお寺のイメージだった。高野山内での一日フリー乗車券(830円)もあったが基本的に歩く事にしているので中心部に向かうバスに乗り大門で下車した、料金は380円だった。

 1705年に再建された大門は高野山の総門というべき存在で雄大で迫力を感じた。両側の大きな金剛力士像とともに重文指定され、高野山の入口にふさわしい威容を誇っていた。

 ここから「奥之院」近くにある宿坊まではバスもあるが2〜3kmぐらいなので街中を歩く事にした。大門から少し街の中に入った左側に「町石一番石」の表示板があった。この表示はここが霊場・高野山の中心であることを示していた。

雄大で迫力を感じた大門
町石一番石の表示板 高野町の街中を歩く
   右手の朱色の根本大塔の姿が見え隠れした道を少し行くと高野山真言宗総本山の「金剛峯寺」の前に出たが今日は外部から見るだけにして町の中を歩いて行くと多くの外国人に出会った。今晩お世話になる恵光院が右手に見えたが午後4時で、まだ早いので近くにある「奥之院」の入り口で一礼して少し内部を歩いてみた。

入ると右手に司馬遼太郎の碑があった 何か違う空気感が漂っている奥之院
 
 奥之院は多くの墓石や供養塔が立ち並び神秘的な雰囲気があった、戦国武将などの墓石など見て行くときりがない、「中の橋」付近で引き返しして入り口近くにある宿坊の恵光院の門を潜った。玄関口に入るとすぐに若いお坊さんが受付部屋に案内してくれた。今晩は宿泊客60人の中で日本人は私一人のみですと聞いてビックリ!名前やナイトツアーの予約など確認してすぐに部屋に案内してくれた。

お世話になった恵光院の門

 部屋で浴衣に着替えて直ぐにお風呂に入ったら外国人が既に湯船に入っていた。「こんばんは!」と挨拶、その後は英語の単語を並べるだけの会話だが、ロンドンから夫婦で10日間の来日で東京、京都、と廻ってからここ高野山に来たという。なぜここに来たのかもっと聞きたかったが私の英会話能力では無理だった。部屋に戻ったら夕食の精進料理が容易されていて、注文した熱燗も一合付いていた。

夕食の精進料理が美味しかった
 
 「奥之院ナイトツアー」の午後7時に玄関口に出たらすべて外国人ばかり、他の宿坊から来た2名の日本人と一緒の3名のツアーとなった。外国人用のグループ2組(50名)と日本人グループ(3名)の3組が宿坊を出発した。

 案内のお坊さんの持つライトと道の両側にある灯籠の明かりを頼りに奥の院の弘法大師御廟まで、およそ1時間半ほどの道のりを説明を受けながら歩いた。御廟橋を渡り聖地エリアに弘法大師廟の前では案内のお坊さんと一緒に般若心経を唱えた。帰りは途中からバスに乗って宿坊に戻り部屋に入ると既に布団がきちんと準備されていたので寝るのみだった。

欧米人ばかり 光るに浮かぶ弘法大師像
自然と宗教が一体と感じた厳粛な雰囲気の奥之院ナイトツアー
参考:ナイトツアーは2,500円、宿泊費については予約時期、その他で変化がありそうだ。今回は6畳の和室で部屋で食事で二食付きで少し高めの「19,000円」だった。(歩数計:18,680歩)

  高野山を歩く(2)--(4月16日) 
   昨晩のナイトツアーから戻ってすぐ9時に寝たので朝の4時にはいつもの様に4時に起きられた。6時半から本堂での朝の勤行や護摩祈祷の参加は貴重な体験だった。読経を聞いたり、煩悩を焼き尽くし、願いを仏さまに届けるという護摩祈祷などはとてもおごそかで俗世界との隔たりを感じた。

 部屋は襖で仕切られているだけだが、部屋ではWi-Fiもあり、金庫や、TV、浴衣もあり、トイレも清潔で一般の旅館と同じように整っていた、外国人の希望が多いのか私にとっては宿泊費が少し高いことだったが仕方がない。朝食を食べて8時半頃宿坊を出た。朝のコーヒーが飲みたいがこの時間では無理、再度「奥之院」に向かう。

イタリア人に撮ってもらった グループで来た外国人
 朝の早い時間のせいか人出は少ない、一の橋から御廟までの参道には樹齢数百年の杉木が並ぶ山道は歩いているだけで普段とは違う厳粛な空気感を感じた。

静かな朝の奥の院
 奥之院は20万を超える墓や供養塔が立ち並んでいる道が約2kmある。名前を聞いたことがある戦国武将の豊臣秀吉、織田信長、大岡越前守、平敦盛、武田信玄、徳川吉宗、石田光成、明智光秀などや各地の大名から庶民までの墓石群が立ち並んでいる。地元の栃木県・黒羽藩の大関家の墓もあった。

 弘法大師の「こしかけ石」や顔が映らないと3年以内の命と言われる「姿見の井戸」や「汗かき地蔵」、「みろく石」「お化粧地蔵」・・・なども見て回った。幸い井戸の水面には自分の顔は映った(^.^)/~~~。

 御廟橋の手前で脱帽、拝礼して厳粛な雰囲気に包まれている御廟域に入った、お参りしてお札を受けてから戻ろうとしたら先ほど御廟橋で会話した外国人専門の女性ガイドに再度出会った。

   
 大関家の墓  かわいい石仏
お化粧地蔵 仲良し地蔵
 女性ガイドの話では、もう少し待っていれば10時から「生身供(しょうじんぐ)」の儀式が始まるから見て行って下さいというのでせっかくだから15分待つことにした。

 弘法大師空海は835年に奥之院で入定した、入定とは「瞑想をして生きたまま仏になる」ことだという。現在も弘法大師は御廟の中で生きているとされているんだそうだ。生きているという事は、食事が必要で毎日二回(6:00と10:30)食事が届けられている。これが「生身供(しょうじんぐ)」と呼ばれる儀式であると説明を聞いた。

 
 嘗試地蔵でのお祈り

 水向け地蔵の前にある御供所の横の扉が10時に開いて大きな木箱が出て来た、中には食事は入っている。嘗試地蔵(あじみじぞう)の前で食事の毒味する出発の儀というものが行われてから先導役のお坊さんの後に続いて食事が入っている木箱を前後で担いで目前を通り抜け御廟橋の手前で拝礼してから御廟に届けらる姿を見送った。これが毎日、雨の日も雪の日も1000年以上続いているというからすごいことだ。

 
 先導役のお坊さんと3名が運んで行く
弘法大師のいる御廟へ

 朝から約2kmの奥の院を往復したのでかなり疲れたことに気が付いた。街中に戻ってカフェで一休みした後に金剛峯寺と壇上伽藍を歩く事にした。

 高野山真言宗の総本山である金剛峯寺を見学した、本坊には絢爛豪華な襖絵や良くネットに出ている白砂に石を配置した美しい庭があった。豊臣秀次が切腹した「柳の間(再建された部屋)」もあった。

高野山真言宗金剛峯寺
   
 枯山水の小庭 拝観料500円(お茶・お菓子付)
 
 金剛峰寺のメイン庭園「蟠龍庭」

 その後は金剛峯寺から徒歩約10分弱の距離の檀上伽藍へ、蛇腹道を通りながら金堂へのお参りは中門から壇上伽藍に登って行くのが順序かなと思い左に回り込んで中門に出た。

壇上伽藍への蛇腹道 2015年に再建された中門

 中門を通り壇上伽藍に出ると金堂、根本大塔、御影堂など、いくつもの堂塔が立っていて荘厳な雰囲気がある。まず金堂への階段を上がると大きな塔婆、金堂に入り拝殿から遠くに薄暗い正面厨子中の木彫仏に向かって手を合わせた。

大きな塔婆と金堂
 
 その後は高野山のシンボルと言われる高さ48.5メートルの朱塗りの「根本大塔」は1934年(昭和9年)に再建されたので鉄筋コンクリートで出来ていた、300円で内部に入ると真ん中に巨大な大日如来像、まわりを取り囲むように大きな柱、座ってしばらく眺めていると気力が充実してくるような感じがした。
 
「こうやくん」が出迎えた根本大塔へ 早期復興への祈願
 午後3時をすぎたので、まだ見ていない建物は明日に回すとして二日目の宿坊である「金剛三昧院」に向かった、細い道を登って行くと金剛三位院と書かれた石柱がありその右には熊野古道の小辺路方面への道標があった。

 午後4時に金剛三昧院の山門に入ると本堂のような入口があり近ずくと若いお坊さんが出てきて氏名を確認して別棟になっている宿坊棟に案内してくれ、部屋で食事や風呂、時間などの案内があった。ここで電話で夕食の追加をお願いしてあることを確認した。
 
熊野古道の小辺路 金剛三昧院の山門 
  内容は殆ど恵光院と同じだが夕食、朝食は大部屋で一緒に食べる方式。午後7時半から夕食の精進料理を食べると寝るだけだった。ここも外国人が多かった、夕食は大部屋で50名ぐらいの中で日本人は6名のみで四国巡礼が終わったので、ここに来た夫婦がいたが礼拝や写経などの仕草が経験者のようだった。

精進料理はここでも美味しいかった
 外国人が多いいのはミシュランガイドで「3つ星」評価を受けたことと、体験者のSNS報道で高野山の魅力である日本の伝統、自然の豊かさ、宿坊などを体験したいのだろうと思った。今日も歩いた歩いた、ここの宿泊料は13,000円 (歩数計:15,468歩)
高野山を歩く(3)--(4月17日)
 夕べは8時半頃には寝たので朝は4時に目が覚めた。5時にTVの電源を入れ音量を低くしたのに少し経ってから隣の外人のおばちゃんにううるさいから音量を下げてと叱られた、境が襖一枚だから気を付けなければと気が付いた。

 6時半から本堂での本堂での朝の勤行に参加した、ここでは6人のお坊さんがお経をあげた。その後に戻って食事部屋に行ったら私のお膳が無い!追加を依頼したが準備できないという。沢山の外国人も一緒なのでそれ以上追求せずに部屋に戻った。チェックアウトの前にこの寺にある国宝の多宝塔をじっくり見たが国宝にしてはかなり古くなっているので修復が必要ではと感じた。
本堂への廊下はピカピカだ!  国宝・多宝塔
  チェックアウトのための部屋に行くと年配のお坊さんが夕食の追加分の3000円の領収書を出したので、チェックイン時に追加の確認をしているのに朝食が食べられなかった話をしたが・・・返事は「あぁそうですか、連絡ミスは申し訳ないので注意します。朝食分1000円を返します」と非常に事務的な返事。ここで揉めても仕方がないのでそのまま引き上げたが残念な経験だった。

 朝飯を食べないので何処かにコンビニがある筈なのでスマホで調べてコンビニでおむすびの朝食となった。これから注意すべきことは朝食付きの宿泊代でネットで申込んで夕食の追加を電話でするような場合は十分確認が必要だ。

 霊宝館は8時半から開いているので最初の訪問は霊宝館に向かった。ここで国宝や重文など約一時間鑑賞したが旧館は温度調節もない昔のままで寒かったがこの状態で収蔵して良いのか疑問だった。
霊寶館への道 蓮池 
 蛇腹路から壇上伽藍に向けて歩いた。空海は東西に細長い高野山を「東西に龍の臥せるがごとく」と形容した。「龍」の頭は壇場伽藍、尾は現在の金剛峯寺の東の蓮花院の辺りらしくこの間をつなぐ小道は龍の腹になり「龍の腹の小道」が転じて「蛇腹路」と名づけられたと説明文にあった。
東塔から大会堂、根本大塔を望む
  智泉廟、東塔、三昧堂、大会堂、愛染堂、金堂、根本大塔、三鈷の松、御影堂、孔雀堂、西塔、御社、山王院、六角経蔵など説明文を読みながら廻るとかなりの時間がかかった。特に御影堂(みえどう)は弘法大師がお住まいになっていたといわれるお堂で特に重要らしい。 (壇上伽藍にあるお堂の配置図はここを参照ください)
空海が住まわれたという御影堂
  御影堂から孔雀堂、西塔に出たがこの西塔はかなり地味な存在である、ここから西塔の近くには神社があった、空海は「明神社」と称して山の神(丹生明神・高野大明神)を祀ったようだ。総称して高野山「御社」で検索すると詳しい説明が出ている。御社の隣に「山王院」という神社もあった。
御影堂の伽藍 孔雀堂
   
 西塔 御社(明神社) 
 「六角経蔵」と呼ばれている建物で経蔵の基壇のあたりに把手がついていて、回すことができるようになっている。一回りすれば一切経を一通り読んだときと同じ徳を得ることが出来るとあった。取っ手を押したら動いたので一回転したところで観光客が見ていたので記念にと写真を撮ってもらった。弘法大師ゆかりの松で「三鈷の松」も近くにあった。

 
六角経蔵で一回転した  三鈷の松
 壇上伽藍にある建物を一つ一つ見ながら歩くのが気持ちいいので、やたら歩いてしまった。今朝の8時から宿坊を出て「霊寳館」で一時間、その後10時50分まで歩き通しで疲れた。

 近くにあった「西利」という店に入ったら食券の自動発券機があった、珍しい!「高野カレーうどん」を注文しでゆっくり休んだ。店の人に徳川家霊台は歩いてどのくらいか聞いた、「直ぐですよ!15〜20分ぐらで近いですよ」との返事。教えて貰った道を15分ぐらい歩いたら波切り不動尊と隣にある徳川家霊台に着いた。
波切不動尊 徳川霊台の家康の霊屋
  徳川家霊台の石段を上がると立派な霊屋があり右側に家康、左に家光だった、やはり家康の方が鳥居もついて豪華である。受付のおじさんに女人堂までの距離を聞いたら「近いが上り坂だからゆっくり登って!」との返事だった。峠のような頂上にある女人堂には10分で着いたが思ったより急な登り道だった。

 高野山は古来より「女人禁制の場所」だった、女人禁制は、1872年(明治五年)まで続き、女性は一歩たりとも入山を許されなかった。女性はこの女人堂へ籠り「弘法大師御廟」へ向かい、祈りを捧げることが唯一可能だったようだ。
 高野山に通じる道は7ヶ所あったので入口に女人堂が造られたが現在みることのできるのは、この不動口に建てられた女人堂だけらしい。残りの6つは今はもう存在しないのだ。
 
 この女人堂に関する案内板を読んでいたら山道から若い欧米人が降りて来た、聞いたら弁天岳から来たという。女人堂から25分ぐらいで弁天岳まで登れ、弁天岳から大門まで続く道があり1時間ぐらいで歩けることが分かった。

 後で分かったことだが・・「高野三山めぐりのハイキングコースとして整備されているので、初日のバスをここで下車して大門まで歩く事も出来た訳で事前に分かっていたらここで下車して大門まで歩くことも可能だったのだ。

 高野山の旅はここで無事に終わった、いろいろな経験、体験が出来た、もう一度来たい場所だった!(歩数計:19,385歩)
女人堂の前にて

 ひとり旅で感じたこと
 日本を代表する真言密教の聖地だから巡礼者や高齢者などがお参りのために宿坊に泊まり朝のお勤めに参加したり、座禅や写経などの修行ができたり精進料理も味わえるというイメージが強かった。違っていたのは外国人の観光客の多さであった。

 宿坊で心を落ち着かせる特別な体験をして、自分自身を見つめ直すきっかけにしたい気持ちがあったのだが周囲が外国人観光客に囲まれて戸惑ってしまった。私が感じた「戸惑い」は見方を変えると「不安」にもつながる。

 異なる文化をもつ方への配慮などむろん必要だが「日本らしさ」を守り伝えることも重要だ。今や日本らしさは世界が注目し国際社会で受けいれられる時代なのだということかもしれない。


護摩祈祷を見る外国人観光客
 
 高野山で3日間過ごした感想としては真言密教の聖地で非日常を体感し、心と身体に染み込む生きて行く力をいただいた。

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