信州の鎌倉・塩田平ひとり旅

2016年6月


   上田市の西南に広がる一帯は、鎌倉幕府の重職であった北条義政からその孫まで、三代に渡り約六十年、塩田北条氏が信濃の一大勢力としてこの地方を統治したことから鎌倉時代から室町時代にかけて造られた神社仏閣など、数多くの文化財が残っている。このことからこの地域を。

 この一帯は「信州の鎌倉」と呼ばれていて全国「遊歩百選」認定コースでもある塩田平ウォーキングコースを歩いて来た。当日は梅雨開けの真夏の時期で暑くて疲れたが忘れがたい夏の思い出になっている。

塩田平ウォーキングマップ
   上田城から塩田平へ(一日目・8月2日)
   
 ここに来たら上田城も見たいで上田駅を途中下車した。駅の正面にTVドラマ「真田丸」の大きな垂れ幕が迫るように掲げられているし駅から上田城ヘの道にも真田丸と六文銭の旗がためいていた。城の表門付近では観光客への歓迎サービスの一つで真田十勇士姿の若者が一緒に写真を撮ってくれていた。

 ここで女子高生から「質問に答えていただけますか?」という声がかかった。上田高校の女子生徒で学習の一環でここに来た観光客からいろいろな意見を聞いてまとめたいので協力し欲しいということだった。「上田城に来たキッカケや見たい場所、今後の観光についての意見」などの質問に答えた。最後に後ほど私のHPに掲載したいので貴女の写真も撮って良いか聞いたら了解してくれた。

 上田城は天守閣はなく櫓があるだけだがなぜか非常に賑わっている、驚いたのは真田神社にお参りしようとしたら20人ぐらいの人が並んで待っていたので一瞬お正月風景と同じようだと感じた。これもTVドラマの「真田丸」の驚きの威力だろう。

上田城と女子高生の調査・観光サービス

上田城はもっと時間をかけてめぐりたかったが次の塩田平ウォーキングがあるので早々に切り上げて駅に戻った。
   上田電鉄の塩田駅で降りたのは11時頃だった。最初の訪問先は「無言館」だったので地図を確認し2.3kmで30分ぐらいだろうと思って、歩き始めてから気が付いたことは緩やかな坂道登り坂になっていた、あいにく気温も上がり炎天の下を汗だくで歩くことになった。途中で休みながら歩いたので約40分ぐらいで丘の上の林の中の「無言館」に到着した。


無言館近くの丘から美しい塩田平を望む

 無言館は木製扉が有るだけで窓口も無い扉を押して中に入ると薄暗い中に作品が浮びあがって来た。立派な建物の中に有名画家の作品が並んでいるような美術館ではなかった。乗用車で来た人が数人いたが、たくさんの観光客がどっと押し寄せるような場所でもなかった。

 先の戦争で志半ばで戦死した画学生たちの遺作やイーゼルなどの愛用品が展示されていて20代の才能ある若い人達がもっと沢山の絵を描きたかったのにその希望が戦争という悲しい出来事で絶たれてしまったことを物語っていた。作品は何も言わないが見ている人にその声が伝わってくるようだ。心に深い悲しみを刻んだが思い出に残るすばらしい美術館だった。

林の中の無言館の入口 入口は簡素だが・・
出口に展示されていた作品集を購入

 無言館を出て右手の坂を上るが少し歩くだけで汗がダラダラと出てきた。すぐに前山寺と書かれた冠木門(通称黒門)の前に出た「真言宗前山寺」と書いてある。真言宗はわが家と同じ宗派だから本尊は仏壇にあるものと同じ大日如来である。
 前山寺の教えが心に残る
 ・ 人生は生まれによって尊からず その行いによって尊し
 ・ かけた情は水に流せ 受けた恩は石に刻め
 ・ 右は極楽左は地獄 心ひとつが道しるべ

 この黒門から100mぐらいの参道を歩くと奧に階段があり、そこを上がると右手に本堂があった。ここの住職夫人が作る「くるみおはぎ」が有名らしいがスルーしてさらに石段を登ったところにが目指す三重の塔があった。

冠木門(通称黒門)
 寺名は「ぜんさんじ」と読むらしいがこの三重の塔には窓や扉、廻縁、勾欄が無いから未完であるという。未完と云われてもどうみても完成している。だから「未完成の完成の塔」と呼ばれていて国の重要文化財になっている。
  

三間三重で高さ19.5メートル、屋根は檜・椹などを薄く割った板で葺いてある
    
    三重塔を眺めると反りが優美で何度も見上げてしまう。 軒下の組木も層の重みを支えるためのものだが機能性だけでなく意匠も美しい。このような建物を室町時代から残してくれた先人に感謝したい。

   前山寺から「あじさいの小道」という名の遊歩道を通って、塩田城跡の表示を経由して龍光院に向かう。
以下はWebでの情報を要約したものである。
 塩田城は鎌倉時代中期(建治三年=1277)鎌倉幕府の重職であった北条義政がこの地に移り館をかまえたことから始まった。

 義政の子国時、その子俊時と三代に渡り約六十年、塩田北条氏と称し信濃の一大勢力としてこの地方を統治し、また鎌倉幕府内でも活躍したが1333年に。新田義貞に組した為に一族が滅び衰退した。

 時代は下がって武田信玄は塩田城の戦略上の重要性を重視し、信濃の前進基地として使用したが武田氏が滅亡して後、真田氏の領有するところとなった。

 真田昌幸(幸村の父)が1583年に現在の上田城を築き、城を中心として上田城下町をつくり、塩田平を穀倉地帯として重要視したが政治経済の中心が上田城下町に移るに連れて、塩田の役割が薄れていった。(以上)

 龍光院の黒門の案内板には慶長6年(1601)萬照寺六世瑞応が中興開山し当初の寺号だった仙乗寺を龍光院と改め曹洞宗の禅寺としたと書かれていた。

この門からかなり長い参道を登って行く

 黒門の左側には「山門禁葷酒」の文字があった、「葷」(くん)と呼ばれる臭いの強い野菜や酒は修行の妨げになるので、寺の中に持ち込んではならないとい意味で禅寺にはよくあるようだ。山門からは石段を上がって行くがこれがとにかく長かった。ここでも汗が・・・。

 お参りして山門から出ると隣には「塩田の館」という看板がある、館内にある北条庵は、地元のおばちゃん達によって運営されているお店だとか。地元産のそば粉を使って作る手打ちそばなど販売していたがお腹は減っていないので見ただけで通り過ぎた。向かい側に塩野池がある、塩田平は周囲をとりまく山地が1200mと低く、かつ内陸の盆地で年降水量が少ないため池灌漑が行われていた地域である。塩田平の景観のひとつとなっていて「全国ため池百選に選定」されていると書いてあるが外観上はあまり特徴的なものは見当たらなかった。
 
 塩田の館  塩野池
   更に遊歩道を進むと次に訪れたのは「塩野神社」であった。少し荒れた感じがしたが杉林の中に立つ拝殿は江戸時代に建立されたも。2階建ての楼門造に特徴がある、また拝殿の前にかかっている橋は、その形から「太鼓橋」の名が付いている。戦国時代には、武田信玄や真田昌幸・信之が信仰を寄せていた神社だという(説明文)。
 
塩野神社 太鼓橋
 
 塩野神社の隣りに信州最古の木造建築である中禅寺薬師堂がある。中禅寺への道は独鈷山を正面に静かな佇まいの木立に囲まれていた。左手に受付が見えたが右手にある茶屋から「暑いから冷たい麦茶をサービスしたます」と店番のおじさんから声をかけてくれた。腰を下ろし飲んだ冷たい麦茶が心に染みわたった。

 何処から来たとか、一人で歩いているのか、服装をみるとベテランのようですね、などの問いかけに答えてからこの塩田平や最近の観光実情など聞いてみた。真田丸効果もあるようで観光客は増加傾向にあるらしい。
 
中禅寺への入口  境内は手入れが行き届いていた
  茶屋でゆっくり休んでから受付で拝観料を払おうと顔を見たらさっきのおじさんだった。どうやら、茶屋と受付を兼務しているようだ。

 中禅寺の薬師堂は茅葺屋根に宝珠を載せた、三間四方の宝形造りで平安末期から鎌倉時代に見られる建築様式らしい。約八百年前の建物と仏(薬師如来像)がこの塩田平に残っていることはすばらしいとこだ。薬師堂と木造薬師如来坐像は国の重要文化財に指定されている。
   
左右に仁王像のある山門
   
薬師堂
 
 歩き始めてまだ3時間ぐらいだが暑くてペットボトルの水も残り少なくなった、もう続けて歩くのは無理だろうと感じたのでシャトルバスを使う事にした。持っていた時刻表をみると中禅寺発は14時37分発だ、急げは間に合う停留場まで走ったらまた汗びっしょりになった。バスに乗ってみると埼玉県の所沢から来たというご婦人が2名だけだった。中禅寺から別所温泉駅間は歩いたら1時間以上かかる、特に見るべき建物もないからバス利用が正解のようだった。
 
 バスを降りてすぐに「安楽寺」向かって坂を登って行くと右手に「安楽寺」「常楽寺」左手に「北向き観音」と標識が出ていた。進むと右手に「旅館七草の湯」があり、その傍の「黒門」は安楽寺境内の入口のようだ。左側には龍光院の山門にも有った「山門禁葷酒」と同じ意味の「不許葷酒入山門」の文字の入った石造があった。
 
扁額の崇福山(そうふくざん)は安楽寺の山号
蓮池にはハスが僅かに咲いていた 山門への石段 
 
 右手の蓮池には花が少し咲いていたが参道を進むと、両側を老杉の大木に挟まれた石段にたどり着く。この石段も鎌倉時代の石工が作ったのだろうか精密な作りである。登って行くと草取りをしているおばさんに出会ったので挨拶して登りきると平地が広がり境内に出たが空が急に暗くなり夕立がくるようで雷鳴が遠くから聞えてきた。

 
本堂 お地蔵の出迎え
 
 深い緑と天高く伸びた木々にかこまれていている石段が続くが凛とした雰囲気で身が引き締まる感じである。更に石段を登って行くと奥に塔が見えてきた国宝八角三重塔だ石段の下から見上げる姿が美しい。今回の旅の最大の見どころはこの国宝「八角三重塔」だった。
   
緑の中から八角屋根が見えた 塔は下から見上げるのが美しい
 素人目には四重塔のように見えるが一番下の屋根はひさしに相当する裳階(もこし)ということで裳階付き八角三重塔で内部の天井の形式や八角の仏壇も禅宗寺院には珍しく大日如来像が安置されている。昭和27年に国宝に指定された(説明文)。

 「安楽寺の八角三重塔」で検索すれば多くの資料があるの詳しくは省くがこの塔の周りは墓になっていて多くの墓石に囲まれている。このような変わった場所にこの塔が立っていることが不思議だった。近くの椅子に腰を下ろしてしばらく鑑賞した。日本的な奥ゆかしさの中になぜか懐かしい風景になっている。

 なぜ八角なのか、多分中国の影響だろう。なぜここに居るのか、ここは禅寺なので禅の心得として「今を一生懸命生きる」ことだ・・など考えていると時が経つのも忘れそうだった。全景を撮ろうと小径を登って眺めると屋根の反りの重なりが非常に美しく見えたがこのような塔は見下げるものてなく見上げて拝むものだ。

 
  世界に誇れるこのような文化財はこれからも大切に保存し多くの人に見てもらいたいものだ。現存する唯一の八角塔で禅宗様建築としては日本最古の建物に別れて参道を戻りながら、鎌倉幕府の栄華と滅亡を思いめぐらした。(ここから少し遠い場所に国宝の大法寺三重の塔があるが今回は時間が無くパスせざるを得なかった)

 安楽寺を出た戻り道の左側に「常楽寺」への標識があり進んでゆくと別所温泉の街並みや透明版に遠くの山々の名前が分かるような表示があった。ここはビューポイントになっているようだ。
 
透明版からの遠望 北向観世音をお守りする本坊
 御船の松 茅葺き屋根の本堂 

 右に折れ石段を登ると本堂があり前庭に樹齢300年の「御船の松」と名が付いた美しい巨松があった。お参りして裏側の道を進んで行くと薄暗くなった林の中に国の重要文化財の「石造多宝塔」があった。心配していた雨が降り始めた。

 
石造多宝塔の右側 石造多宝塔の左側にある石塔群
    常楽寺は北向観音の本坊であり、北向観音堂が建立された天長二年(825年)に三楽寺の一つとして建立され現在も天台宗の別格本山としての地位を保っているようだ。その昔は、善光寺より格式のあるお寺とされていたそうだが、杉木立に囲まれたこの場所は北向観音の出現地といわれています。

石造多宝塔 国の重要文化財(高さ は 274cm)

 温泉街への近道があったがここに来るとき確認してあった「北向観音」へ向かった。長野市の善光寺が未来往生に対し北向観世音は現世利益の功徳があると言われていて、両者で一体で両方に参拝しないと「片参り」らしい。観音様に参拝して小雨の中を境内にある映画で有名になった「愛染かつら」の大木にも出会った。

 早々に北向観音から別所温泉駅に向かって歩いていると雨が上がり明るくなった。駅に着いて切符を買おうとしたらこちらでも買えますよと和服姿の女性の声があった。聞いてみると女性駅長が一人で全ての役割をこなしているという、和服姿は真田丸の関係かなと思ったが、もう10年前からこのスタイルだと説明され驚いた。

北向観音入口
厄除観音として信仰されている 別所温泉駅の三輪駅長
 駅長さんにいろいろな話を聞いたがまだ時間があるから下之郷駅近くにある「生島足島神社」に立ち寄ることにした。

 下之郷駅で下車しててから「生島足島神社」まで続く参道の脇にはケヤキが並んでいて、なかなかに風情があった。直ぐに大きな赤い鳥居が見えて来たがこの神社は鳥居だけでなく、お社や橋まで全て赤い色で統一されているのが特徴的な神社である。

 神社のホームページには、内殿には床板がなく大地そのものが御神体(御霊代)として祀られていて。この池を巡らせて神域とされる島をつくる様子は「池心の宮園池(いけこころのみやえんち)」と称され、出雲式園池の面影を残す。日本でも最古の形式の一つである。古くから皇室とつながりがあり、今でも宮中から祭祀料が下賜されているそうである。現在の社殿は昭和15年に国費をもって竣工したとある。

       
   
 
生島足島神社

 駅に戻って上田電鉄に乗って上田駅に着いたのは午後6時ごろになった。近くのビジネスホテルに泊まって翌日は真田家ゆかりの「松代」を歩くことにしている。
   塩田平から松代へ(二日目・8月3日)
   上田市から松代へは長野駅経由でバス利用が便利である。バスを降りたところが松代駅だった。なぜ駅の名前があるのかその理由は4年前に廃線になった長野電鉄屋代線の駅名がそのまま残っているのだ。

 近くにある真田宝物館に入ると古文書や武具、調度品、書画などを5万点を5万点を展示し真田家の歴史を今に伝えている。ゆっくり見学した後に真田邸(新御殿)を見学した。簡素ながら旧大名屋敷の風格を感じさせる建物で開け放った障子越しに回遊式庭園が眺められる、寝所、風呂場、トイレなども公開されていた。屋根の鬼瓦にもしっかり六文銭が入っていた。

 近くに江戸時代後期に創設された信濃国松代藩の藩校文武学校がある。栃木県の足利学校に倣ったようで人材の育成に尽くした建物で文学(漢学)のほかに西洋砲術・弓術・剣術・槍術・柔術の武芸など教えていた様子がわかる。次に松代城跡に行ってみると城門・石垣なども復元され、往時をしのばせる姿がよみがえっていた。

 真田家ゆかりの歴史の街「松代」をめぐって一番感じた事は歴史から学ぶことは多い、時代の変化を読んで果敢に挑戦した真田昌幸などの生き方は最近の東京都知事選に挑んで当選した小池ゆり子さんと重なるものを感じたのは少し考えすぎか!。

 「池田満寿夫美術館」を見学したが心の中を一瞬に表すことが出来て感動を与える絵や版画を作れるのが才能ある人だ、絵や版画を見て何を描いたのか題名との関係はなど考えるのは凡人だ。心ひかれる絵になるかデタラメな絵になるかが天才と凡人の差になる。私の描く水彩画は凡人である以上自身で楽しみながら描く絵にしかならない。

真田邸への道 入口にて
松代小学校の門も風情がある 松代城の表門

 別所温泉の北向観音では善光寺が未来往生に対し北向観世音は現世利益の功徳があるようだ、両者一体で両方に参拝しないと「片参り」になる。縁起を担ぐわけではなかったが長野市に戻るので善光寺にもお参りした。


善光寺にお参り

 今回の一人旅では数え切れないほどの社寺にお参りしたので健康長寿・延命長寿の御利益がある筈と思っている(^^♪

 塩田平を歩いて感じたこと
 上田駅の近くの居酒屋で長野県産のサーモン(養殖)と鹿肉揚げを地酒の信州亀齢(きれい)飲みながら考えたことは長野県産のサーモンがあることはむろん、「信州の鎌倉」も一般の日本人はまだ認識されていないのは多分広報活動は努力していてもまだ伝わっていないのだ。

 異常なほど多くの観光客が押し寄せている上田市の状況が来年も続くのか疑問である。「今後の観光についての意見があったらお聞きしたい」という上田高校生の話に対して、これから歩く「信州の鎌倉」も一緒に考えたらどうかと提案したのは正解だったような気がする。

 
 この地域には別所温泉だけでなく塩田平の鎌倉の遺跡や無言館のような美術館もある。俯瞰すれば「鎌倉文化の祈りの里山であり癒しの湯の里」であった。この素晴らしい地域を多くの人々にもっと知らせたい。


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