1994年10月
 この年の6月に心臓のバイパス手術して退院したがこれからどう生きるのか悩んでいました。幸い体調が回復してきたので友人と蓼科高原の旅に出掛けた。この旅で今まで悩んでいたことが吹っ切れ、36年勤務した会社を早期退社し、今までとは違う生き方をしようと決心が出来た忘れ難い「思い出の旅」となった。


 高原の樹木から出てくる精気が冷たい空気の中に混ざり合って生きとし生けるものに活力を与えているような蓼科高原のY氏の別荘の朝でした。今回の旅は「涼しい所でゆっくり静養するのも良いのでは’」との誘いに乗り仲間に入れてもらいました。朝の冷たい空気を吸いながら、やっぱり来て良かったと感じた。
思いきって、今まで経験したことの無い世界に飛び込んで交流したほうが良いと決心し参加した。グル−プでの1泊2日の旅は朝の食事から寝るまで一緒で、この間いろいろな話し合いが出来た。特に今回のように男4名女7名で年代も20代から50代とばらばら、職業も経営者、公務員、園芸家、会社員、主婦、学生とさまざまであるので話題も多く一層楽しい旅となった。

 過去2年間、心臓病に悩まされ自治医大大宮医療センターに4回入院したが回復せずとうとう今年の6月にはバイパス手術を実施する羽目になってしまった。手術後は自宅療養を続けながら仕事を少しづつやり始めたが自分にとって、これからどうなるのか将来の事が気になり、焦燥感が思考や仕事への集中を妨げる日々が続きました。また老いや死の感触がだんだん近づいてくるような嫌な気分がしていたところであった。



 翌朝山荘を全員出発する、園芸家のSさんの巧いハンドルさばきで石ころ混じりの曲がりくねった山道を登り詰めると二股になっている所でストップした。八ヶ岳、桜平の立看板があるが鉄パイプで柵がありこれ以上は行けないとと思ったら先行したY氏が地元の人のように鍵を外しているところでした。Y氏の地元の人との交流の広さと深さを物語っているひとこまである。

 後で聞いた話だがY夫妻は大工、石屋、温泉経営者、営林署、山小屋の人など地元のあらゆる階層の人達と深い付き合いをしているようだ。ジャンボジェット機の機長をやりながらこの高原に2軒の山荘を持ち、内装は2軒ともを自分自身で作り現在も地下室の部屋をこつこつ作り続けている人でした。

 大工仕事は本格派である、壁塗り、電気配線、配管、窓枠、どれを取っても私の目から見て玄人である。その上にトイレ、風呂場まで手作りだから恐れ入る。またスト−ブはカナダ製、照明はアメリカ製、壁飾りはマレ−シア、ポ−ランド、イギリス、インド、スイスと職業柄か国際色豊かなインテリアである。夕べの食事は食べた魚がカナダのシルバ−.サ−モン、をアメリカ製のバ−ベキュ−セットを使い、オストラリアの塩胡椒でヨ−ロッパのバタ−を使い焼いたものであった。美味い!!美味しいと思うと同時にあまりこの様なものを食べていないわが家の食生活の貧しさを感じた(^o^)。

 

 柵を過ぎてからの道は今までより勾配もきつく道幅も狭い、しばらくの間くねくねした道を登りつめて前面に目の高さにガレ石がせまり、エンジンをいっぱいに吹かしやっと乗り越えた所に小屋と車が5−6台置ける広場があった。どうやら此処が車での終点らしい。海抜は1500mぐらいであろうか、遠くに北アルプス連峰が見え、Sさんが槍ヶ岳が見えると叫んいる、指さす方向には細く尖った山がみえ、少し下がった手前に美ケ原がなだらかな曲線を描いて手前の樹木につながっている、この眺望は素晴らしい。ここから峠まで登るが「この場所で一人でいるより皆と一緒に行けるとこ迄行き疲れたらそこから戻って来た方が良いのでは・・・」と提案があったので、それもそうだと考え一緒に峠に向かって出発した。

 初秋の風が吹きわたる八ヶ岳であるが草花は、まだ活き活きとしている。ななかまど、からまつ、などの木々も空に向かって力強く伸びている。こんな時草花や樹木の名前を知らないのが残念、Hさんは木の名前、Sさんは花の名前、その他の人も私より余程知識がある。会社の事だけしか知らず生きてきたことを恥ずかしく思うと同時に帰ったら早速植物図鑑を購入しょうかな・・などと思いめぐらしながら峠を目指して登った。

 Sさん、医者の奥さんのYさん、の若々しい活力ある声がカラマツ林に響きわたって行く。声楽家のNさんのお母さんは70歳くらいか黙々としかも力強く登って行く。女学校時代から山登りで鍛えたのか足腰は私よりしっかりしている。皆このような所に来ると10才以上若返るのかとも思う。しばらく登るとホ−レン小屋に到着した。ここで昼食だというので持ってきたおにぎりを4個食べた。



 さて、この小屋で皆さんを待とうかと思ったが・・・体調がよいので「もう少しの登ると、眺望が良い峠になるよ」との話にまた乗って一緒に登る事にした。谷川の幅がぐっと狭まりその上を左右から倒木が重なりその木の白さが周りの緑と調和して美しいが勾配がきつくなった来た。40分程登ると木立がなくなったと思ったらそこが峠の小屋であった。登り始めて2時間半ぐらい経ったようだ。バンザイと心の中で叫んでみたがやはり疲れた。皆さんは今夜のおかずにする山蕗を取りに行ったらしいが草むらの中に一人横になり休むことにした。

 目まぐるしく動く雲を眺めながら心臓はどうなっているのだろうか、2200Mの高地でしかも血圧が高くなっている状態では漏れるかもしれない。 いま自分の心臓の中で静脈と動脈が目まぐるしく流れている、脈拍が130になっている、バイパスした箇所が圧力で漏れはしないのか、3−4mmの血管を縫い合わせること自体神業である少しぐらい穴が開いても不思議ではない。しかも心臓から吐き出される血液の圧力は3〜4/Cuと病院で聞いたがかなりの圧力である。漏れれば痛くなるはずだ、痛くないのが不思議である。そもそも何でこんな所まで来てしまったのだろうか、などとつまらぬ事を考えながら横になっていた。

 硫黄岳(2700M)の山頂を征服して来た人が戻ってきた。良く此処までこられましたねと褒められながら帰途についた。帰りはずっと楽だ、道端の草花や小鳥にも観察の余裕が生まれあっという間にホ−レン小屋に戻った。



 山の色彩は驚くほど千差万別である。自然が私に問いかけて来る声が聞こえて来るような気がする。この自然は絶えず変化し活動しているのにその中で自分の考えだけが停滞し澱んでいたようでした。心臓の鼓動に不安を覚える不幸な人間だったのだ。固く萎縮していた精神がゆったりとして眼前に開ける自然と交わりだんだん溶けだして行くこんな感じで周囲の木々を眺める。自然に潜む治癒力ほど偉大なものは無いのではないか、人間の小賢しい思考や自分勝手な欲望は柔らかく溶けだして何も無くなり新しい力が湧き出すようだ。

 今回の旅行を通じて体力も少し自信ができた。病気に対する不安や、仕事の事など何かが吹っ切れた。会社を早期退社し今までと違う生き方をしようと決心した。またいろいろの人々との交流の輪が広がったことはこれからの生活に大きな影響がありそうである。

戻る