2021年8月 |
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健康維持のためと好きな山登りのため毎朝、5時から6㎏のリックを背負って6㎞のウォーキングが日課になっている。 歩いている時はハングル教室の録音や音楽を聴いているが、その朝はNHKラジオに切り替えると「まいにちラジオ」という番組だった。 栃木県の話題として「木村康夫」という人が那須に残る観象台という史跡について紹介していた。この番組で近代測量発祥の地、観象台、縦道、など初めて聞く内容で興味を持った。 番組に出演した木村康夫氏は私が兼ねてから地元の歴史などでお世話になっている人だ。大田原市歴史民俗資料館の館長を勤め現在は市の史編さん専門員として各方面でご活躍されている地域の歴史の専門家である。 観象台について調べてみると。 明治政府は那須野が原の開拓事業にあたり欧米の測量技術と取り入れて近代的三角測量の基準となる基線(2点を結ぶ測量の線)が設けられた。基線測量をした跡が北の千本松と南の親園の地に残っている。基石の上に櫓を立て天文観測もしたので観象台と呼ばれたとあった。 その観象台跡が市内の親園地区にあるというので早速に訪ねた。
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日本の近代測量が始まった場所だから、もう少し脚光を浴びてもよいのだがあまり知られていない。市の教育員会がこの那須基線南端点を市の史跡として指定したのが令和3年2月19日となっている。今年ではないかと指定日を見てその程度の認識だったのかと奇異に感じた。 説明板から奥まったところに石の台座があったが、ここに櫓を建てて測量の南点としたのだ。現在では通りから表示板も見えないしただ石があるだけでは史跡としてなるほど感はあるが櫓でも再建しないと目立たない。 |
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南端点から北端点のある那須千本松牧場まで続く約10.6kmの直線道路は大型農道(ライスライン)として呼ばれている。地元の人はこの道路名を「縦道」とも呼んでいて今でも標識がありますと教えてくれた。 当時の名残を偲ばせる名称が今でも生きていだ、この直線道路は本州では一番長いようだ。
この南端点から北に直線道路が走っている。この先には北基点跡があるはずなのでゆっくり走って行くと「たて道」という表示板もあった。東北新幹線の下を抜けて進むと最終地点近くで行き止まりになっていた。ここから先は農研機構の敷地になっている。
農研機構の敷地内には入れないので許可を取って見学しようと戻ったが後日、木村氏に問い合わせてみると北端点跡は敷地を抜けて正門の近くの道路脇にあるという。 今まで何回も通っている道路だがつい見過してしまっていたのだ。早速行ってみると農研機構という大きな看板のある門の前の左側に小高くなっている場所が北端点跡だった。
説明文の「当時の観象台には木のヤグラが組んであり、明治10年代の開拓や那須疏水測量の際、かっこうな目標物となり、人々に親しまれた」とあるからこの地には多くの開拓者が移住して来ていたのだろうと想像した。
那須基線の観象台については検索するといろいろ貴重な資料が出てくる、参考までに紹介しておきます。 〇「国土地理院」の那須基線のページ 〇「栃木県の土木遺産」の観象台跡のページ 〇「那須塩原市」の千本松の観象台 〇「花鳥風月Visual紀行」の那須基線・縦道を行く
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那須基線について。 「基線測量」では2点間の長さを正しく測定して、その長さが基になって三角形の大きさを決める訳である。この基線は那須基線と呼ばれていて明治11年(1878)に基準測量が行われ「10.628.310589m」を測定したとある。細かい数字になっているのは、何回か測定した平均値なのであろう。
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