2008年8月

 大田原市立図書館主催の歴史講座「奥の細道・松尾芭蕉の足跡をたどる」という講座に出席しました。講師は淨法寺直之先生で、この方は元禄時代に芭蕉が訪問した時の黒羽藩の家老であった淨法寺高勝(芭蕉の門弟で俳号桃雪、秋鴉)から12代目に当たる人である。

 昨年の全国俳句大会実行委員会の委員長を務めたそうで俳人でもあるようです、長い歴史の中で血筋は生きているのかなと驚いたり感心したりです。

 曽良の随行日記によれば下記のように2週間、黒羽(現在は大田原市・黒羽)に滞在したようです。講座には18名の出席者だったが熱心に芭蕉の黒羽滞在中の出来事に関して勉強し、後日バスで史跡めぐりをしながら現地にて説明を受けた

 芭蕉が320年前にこの地を訪れた足跡に触れると、心に響く何かがあり感動を覚えるのである。人間の歴史という大河のような中で自分の存在意義は何なのかを考えさせてくれる。また先人を知る事は自分の小ささを知り今後の生き方の大切さを教えてくれた。



旧暦の4月3日(陽暦5月21日):日光から、玉生、矢板、大田原を経て翠桃邸のある余瀬に到着。(余瀬という地名は現在もあり)

4日:黒羽藩城代家老・浄法寺図書高勝(通称図書、俳号桃雪、秋鴉)に招かれる。
5日:深川での禅の師である仏頂禅師ゆかりの雲巌寺を訪ねる。
6日〜8日:雨で桃雪邸で休養
9日:光明寺へ
10日:桃雪邸で休養
11日:桃雪邸から翠桃邸へ戻る
12日:犬追物跡、玉藻稲荷神社の史跡探訪
13日:金丸八幡宮参詣
14日:翠桃邸で歌仙興行
15日:翠桃邸から桃雪邸へ
16日〜18日:黒羽を立つ高久へ
18日〜20日:那須湯本、殺生石

黒羽の「芭蕉の館」前にて




 那須氏の崇敬篤く、那須氏没落の後は黒羽くろばね城主大関氏の氏神としてあがめられ、天正5年(1577年)
には大関氏によって本殿・拝殿・楼門が再興されたと社記は伝えています。

 社宝には、那須与一が奉納したといわれる太刀や寛永19年(1639年)の建立と推測される楼門などがあり、
春と秋の例大祭に奉納される太々神楽、獅子舞、流鏑馬の行事なども有名です。
(以上は市のHPの紹介記事)


1185年那須与一が屋島の戦いにて扇の的を射落す時に「南無八幡大菩薩…願わくはあの扇の真中に射させ
てたばせたまへ」と願掛けしたのはこの那須神社であると説明を受けたことがあった。
しかしこれは間違いで那須湯本にある「温泉大明神(ゆぜんだいみょうじん)」に願賭けしたという。

500年後の5月31日芭蕉は源義経の軍兵那須与一に思いを馳せこの那須神社に参詣している。
 
参道から見た那須神社
山門が素晴らしい、本殿は朽ちてきた
 


 

二年四月九日(陽暦1689年5月27日)にはここ修験光明寺へ招かれ午後9時ごろまで過ごした。
おくの細道には「修験光明寺と云有、そこに招かれ、行者堂を拝す」とある。

現在は1.5m程の土塁をあがると句碑があるだけで、木々の向こうには民家と畑が見えるのみ。

「夏山に足駄を拝む首途哉(かどでかな)」

光明寺跡は土塁の上にあった
今では畑と民家となっている 句碑も落ち葉で埋まるかも・・

 

近くにある西教寺の庭にある曽良の句碑を見に行く、この寺と芭蕉の足跡は何の関係もないが
建立した人としては多くの人に見て欲しいということでここに立てたのだろう。

「かさねとは八重撫子の名成べし」


矢板から箒川を渡ると那須野が原、この先の薄葉から実取あたりで芭蕉は馬を借りたらしい。
この箒川に掛かる橋は「かさね橋」といい近年に造られた、橋の欄干の基には句のレリーフが彫られている。

「かさねとは・・・」の曽良の句碑 句碑を見るために・・

 

芭蕉は元禄二年四月三日(陽暦1689年5月21日)に余瀬に住む門弟の鹿子畑翠桃を訪ねた。
ここは鹿子畑翠桃邸があった所であるが、今は墓地となっている。

周りはすべて水田になっていて当時の面影は全くない、変わらないのは黒羽城が
あった方向に見える山並みだけである。芭蕉もあの山並みを眺めたのだろう。

中央の頭が丸い石塔が翠桃のもので後に仏門に入ったためであるという



夏草を刈り取った後の参道の突き当たりに石段があり、上に社殿が建てられている。
石段の左際には源実朝の歌碑が建てられている。金塊和歌集にある当地を詠んだ歌で・・。

もののふの 矢並つくろふ小手の上に
  霰たばしる 那須の篠原

芭蕉が当地で詠んだ句碑も近くにある。

「まぐさ負ふ 人を枝折の 夏野哉」

玉藻稲荷神社は、その縁起にまつわる伝説「九尾の狐」を伝える神社としても有名です。

昔、狐の化身でありながらもその麗美な姿のため、帝にたいへん寵愛された玉藻の前という美女がいました。
しかし、帝が病気の折の祈祷でその正体をあらわにした九尾の狐は、この地に逃げ込み、蝉に身をかえ
桜の木の陰に隠れていたのですが、池(鏡が池)に映った真の姿を見つけられ
討たれてしまったということです。


鏡が池は今も水をたたえ、水面に緑深き風景を映し出しながらひっそりと広がっている。
池の右隣奥には小祠が置かれていたが夏草が生い茂り行く手を阻んでいた。

伝説を知らず、この小さな神社を訪れたとしたら、なんの感慨も湧かないのではないかとふと思ったりした。
神社に両側の狐は九尾ではなかった。
鏡が池



近衛帝の勅を奉じて三浦介明・千葉介常胤上総介広常が、玉藻前が狐と化して逃げて那須野に隠れ
棲んでいるのを退治するために、犬を狐にみたてて追い射る武技を行った跡と説明している。

芭蕉は桃雪の案内でここにあった鎌倉時代の遺構「犬追物跡」を見学しているが、おそらく謡曲
「殺生石」に興味を覚えたからであろうという見方もある。

曲では・・・
「三浦の介・上総の介両人に。綸旨をなされつつ、那須野の化生の者を退治せよとの勅を受けて、野干
(やかん)は犬に似たれば犬にて稽古、あるべしとて百日犬をぞ射たりける。これ犬追物の始めとかや」


「注:中国で野干とは狐に似た外見で小型、木登りがうまく、狼に似た鳴き方をする獣をいう」

狐は犬に似ているところから稽古代に使われた犬はまったものではない、
狐も犬もとんだ言いがかりである。

昔は那須野は草原が広がり、狩りに適した土地であったことから、弓がよく発達していたと思われる。
土塁等を築いて囲いの設備を設け、その中に犬を放して、馬上から矢を射って射止める犬追物が
さかんな土地であったようだ。現在でも毎年の与一祭りには地元弓道部の披露がある

犬追物跡は現在田圃ばかりでまったく当時の面影はない



黒羽の町の中ほどにある常念寺を訪れた。ここには芭蕉の句碑がある。

「野を横に馬牽むけよほとゝきす」

広々とした那須野の情景を詠み、ほととぎすの鋭い声のイメージが夏の野の風情を巧に表現している

このような句碑はいったい誰がどのような理由で建立するのだろうか、芭蕉の足跡とまったく関係がない
場所に作っても訪れる人には感慨が湧かないのではないだろうか。
常念寺境内にある句碑 参加者は中年が多い



芭蕉の館は、郷土の歴史、文学、人文等に関する資料を収集及び保存、公開をし、郷土意識の
高揚及び教育、文化の振興を図ることを目的として設置された施設です。

〔芭蕉の里くろばね〕の拠点施設として芭蕉の館を中心に 芭蕉の広場、芭蕉の道、城跡公園、
大雄寺、鎮国社がある。館内部には芭蕉に関わる資料と黒羽藩大関家の資料を常時展示している。

町興しのためにこのような施設が出来たのだろうが、箱物だけでなく町興しが威力を発揮するには、
地域のみんなの意識と力が兼ね備えなければならない。

この為にもこのような講座は地道に継続して行く必要がある。

 
芭蕉の館の前の芭蕉と曽良の旅姿像




後嵯峨天皇第三皇子仏国国師が禅堂を創建したので皇室との関係があった寺です。
筑前の聖徳寺・紀州の興福寺・越前の永平寺と並んで禅宗の日本四大道場の一つだという。

芭蕉は元禄2年4月5日(陽暦1689年5月23日)に雲厳寺にある仏頂和尚の山居の跡をみようと出掛けた。

山は奥深い様子で谷沿いの道がはるかに続き・・・雲厳寺十景を見尽くしたところに橋がありその惣門をくぐる
と奥の細道に記している。

仏頂和尚の山居の跡は裏山の岩場で危険なため入場禁止となっている。
雲厳寺の山門 句碑は境内の隅にある
雲厳寺の境内にある「歌句碑」には次のような内容だが・・・コケなどで判読が難しい。

佛頂禅師
「たて横の五尺にたらぬ草の庵
       むすぶもくやしあめなかりせば」


芭蕉翁
「木つつきも庵はやぶらず夏こだち」

裏面には明治12年に再建とある。

同行した解説者の話では現在ここで修行しているのは2名という、これも時代の変化か、
先日多くの修行僧がいた韓国の寺をめぐってきたので非常にさびしい話だった。


 


芭蕉は黒羽に14日の長逗留した内、桃雪邸には八泊している。余程居心地が良かったのだろう。現在は
黒羽公園のなっていて「芭蕉の館」も園内にある。

「夏も庭も動き入るるや夏座敷」

「桃雪主人の開け放した夏座敷に座して多くの山や前庭の桂景に対していると、山も庭も青々としてそよぎ、
さながらこの座敷に入り込んでくるような躍動した生気が感じられる」との解説板があった。

ここは現地説明のコースには何故か無いっていなかったので後日自身で訪ねた場所である。

家老だからか黒羽城跡近くであった 「夏も庭に・・・」の句碑(昭和34年5月建立)

座学とその後のバスに乗っての現地説明は解り易かった。身近な所にこのような史跡があったのか
と改めて多くの事を知った。多くの市民にも知っていただきたいと感じた講座でした。


雲厳寺にて
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